あまり否定的なことは口にしたくない、美しくないから。
言葉や感情が醜い!というのは当然として、なによりその瞬間の表情が美しくない。
造形以前の問題で、ほんとうに醜く歪んで見えるのだ。
現実世界でもそうだし、たぶんそれはテキストであってもそう。
ああだこうだと訳知り顔で文字を打ち込む瞬間はきっと般若の顔をしている。
もちろん、つぶやきくらい好きに書かせい!という言い分や心情は痛いほど理解できるのだが、本当にそれでいいの?という疑問は常にある。
というか、言葉を選ぶ…文章を練るくらいの手間暇はかけていいんじゃない?と常々感じている。
見て思ったことをパッと放流しちゃうカジュアルさが魅力である、と思うものの、やっぱり人の目が存在するツールであるし、いついかなる人がどんなテンションで見ているかわからない。
最低限のエチケットとして文章には責任を持つ必要があるよね?と考えているし、責任を持つ、とは誰かの茶々に好戦的でいたり、好きに書かせろと開き直ることではなく、自分が放つ言葉がいかに獰猛な動機で発せられたものだとしても、第三者の目を明確に意識し極めて冷静であることを装うことに尽きるのではないか、と思う。
そのときどきのエモーションが飛び交うことも醍醐味のひとつと知るものの、SNSが市民権を得て(とは言っても、一部の好事家のみであるが)からと言うもの、かつてのような一瞬一瞬のどうでもいいことを言いづらくなってしまった。言うけど。
ツールに対し多少の歩み寄りをするならば、もう少し理知的に運用するべきなのは明らかなのである。
旧くからの瞬発的な意味もないことを散らす勢いで、流れてきたものに対して脊髄で好き勝手言うのはまぁまぁ見てらんないですよ、みたいな話。
インターネットは喫茶店よりずっとずっと声が大きいんですからね、ほな。
(苦手なもの・よくないと感じることをもっと明確に伝えられるようにならないと、そうすることで意見にコントラストが出る、と一瞬思った時期が終わった。他人が気に入らないことを発信することにいちいち不快感を覚えるタイプの人間には向いていなかった。なりたくないものになる必要なんかどこにもない)