#極力日記 51
少なからず、苦手な言葉は存在する。
たとえば、ていねいな暮らし。
うるせぇ!のひとことで終わってしまうくらいには、しゃらくさい価値観だと認識している。
こんなにもうざったく思うのは、見栄えのいい暮らしってことでしょう?と平たく曲解しているからかもしれない。
言葉が出回り始めた頃から座りのよくない価値観だと感じていて、誰が言い始めたのかと調べてみたけど結局よくわからなかった。
それも不気味で気持ちが悪い。
なんというか…暮らしというものは全ての人間にあるものだし、それに丁寧も雑もへったくれもなくない?というか、ラベリングして優劣つけてくれんなやという気持ちが強い。
あと、SNSと相性のよい自慰行為だから強いんでしょうね。
皆一様に暮らしに抱えるものはいちいち他人様に見せなくても良いのでは?と思うのは捻くれてんのかな。少なくとも、底意地のよくない感想ではありますが。
心地よくありたいという欲求はとても自然だと思うんだけど、それに対しての方策がすごく不自然に感じられて気色悪いなって思っちゃうんだよな〜
観測範囲がよくないんかな。
清濁併せ呑むのが暮らしであり人生だと思ってるからか、清しかないような演出が心底気持ち悪い(濁を出せということではないけれど)。
俗から離れています、みたいな澄ました顔の裏に大きな自己顕示欲や自己愛が透けて背筋がすっと寒くなる。
水清ければ魚棲まず。
この言葉がすべてを教えてくれるような気がしている。先達に感謝をし、うだうだとボヤくのを一旦やめさせてもらおうと思う。
#極力日記 50 // 続きのない夢のなか
夢を描く仕事の人たちが心に描く夢は夢の外でしか叶わないことがあるらしい、どうやら。
折に触れ、アイドルを応援することは一見ポジティブなようでいて、当人の人間らしさの否定に加担している可能性があることに自覚的でないといけない、みたいなことを考えているし、言い続けている。
けども…さすがにしんどすぎない?しんどいよな?
近年『アイドルも人間!人生を生きよう!』みたいな解放ムードは確かにあるし、アイドルという言葉の在り方は明確に変化していて。
アイドルにも多様性の流れが来ていることは全く否定しないけど、それが少しずつ手繰り寄せたものが今見ている風景そのものと思うとやりきれない。
アイドル meets ダイバーシティの先にヘレンケラーのwaterのような稲妻が落っこちてるなんてな〜…
枷を緩めたら、目を見開いたら、少し手を伸ばしたら、もっともっと自分の人生が豊かになるかもしれない、と思うと動かずにはいられないよな。
しょっぱい比較で申し訳ないけど、転職とかも超キレイに言えばそんな動機だったりするもんな。
一般人ですら、勤続43年!新卒入社で定年まで立派に勤めあげました!みたいな人がかなり珍しくなっているし、そりゃアイドルだってキャリアチェンジしたくなっても不思議じゃないんだよなあ。
だって人生だもの。
こちら側はどうだろうね?
ずっとあることが幸せだと思っているのはこちら側だけで、あちら側からすると絶望なのかもしれない、と思うだけで胸が張り裂けそうになる。
絶望だなんて不躾な表現だと思うけど…人の期待に応え続けることと自分の人生を歩むこと、散々悩んで考え尽くして、やっぱりそこに自らの将来を見出せなかった・信じられなかったってことを重く受け止めるべきなんだと思う。
これまで見てきたもの、いま見ているもの、これから見るものを疑えという意味では全くないのだけれど。
誰しもがそうだけど、自分の人生を生きられるのは自分しかいない。自分と一生付き合うのは自分なのだ。
だから、いくら過去の自分が導かれた道とはいえ、やっぱり本人の選択は他人が口出しできるものではないのである。
悲しい、寂しい、もっと見たい、ずっといると思ってた、どうしてこんなことに?とか、いろんな想いがあったとしても、グッと飲み込んで"何があっても味方でいる"と確信できる存在しか、担当とか推しているとか…やっぱりわたしは言えないなぁって改めて思った日。
みんなが自分の日々を生きている。
そこに何かを重ねたり背負わせてはいけない。
いまここにあるものだけを見つめて、混沌のなかで想うだけ。
でもやっぱり…デビュー曲って10年、20年と歌い続けるものだから、どのグループもエヴァーグリーンな名曲を携えるじゃない?
それがさ、君たちはとびっきりキラッキラのJ-POP史にだって燦然と輝く大名曲をいただいたじゃない?
もちろん、あなたたちの魅力はそれだけではないけれど、あの曲でみんながあなたたちの素晴らしい魅力に気付いて、追いかけてきたってのは間違いではないと思うのよ。
そんな宝物がほこりをかぶっちゃうかもしれないのは、やっぱり寂しいな〜…
『あれも通過点だったね』って言えるほど活躍してくれたらいいから、なんて気丈なことを心から言える人が何人いるんだろうか。道半ばで放り出された気持ちでいっぱいで、しばらく受け止められそうもない。思い出に暖めてもらおうにも、思い出が足りない人ばかりじゃないかしら。
味方ってなんなんだろうか?
#極力日記 49
ああ〜!10月も終わる。
滑り込みで文字を綴る。
今となっては言い訳のように月末に筆を走らせるのであるが、いつも頭の片隅にはなんとなくブログのことは置いている。
優先順位が高くないだけで。
なんて冷たいことを言ったけど、今月は『あっ、書こうかな』と思った瞬間がまぁまぁあった。
書かなかったけれども。
トピックの多い10月だったと言うよりも、8月を過ぎれば年末という気持ちで過ごしている身として、よりリアルに2022年が暮れてゆくと感じているからだと思う。
ここへきて急に『2022年を生きなければ』みたいなスイッチが入ってしまっただけ。毎年そう。
12月はほんとうに特別だし、12月のために毎年生きているなぁ、としみじみ思う。
わたしは12月生まれなので、12月は毎週何かしらのトピックのある…甘やかしてよい状態が続くのだ。
賞与、誕生日、KinKi Kidsくんのコンサート、M-1、クリスマス、KinKi Kidsくんのコンサート、年越し、正月、KinKi Kidsくんのコンサート。
そう、楽しいことの波状攻撃を浴びるのである。
しかもそのスキマに忘年会(そんなもんせんでも全部忘れる、大事なこと以外)なんてものが挟まったりもする。
そわそわとした街の空気が心地よくて、寒いと口では文句を言いながらも背筋がのびるあの感じは決して嫌いではないし、なんなら冬の醍醐味であるとさえ思う。
そんなツンとした空気を存分に味わえる(…のか?)パーティーが今年も催されるそうです。
12/3(土)に高円寺はrontさんにて、デイタイムでちょい早お誕生日会(の、予定)ですってよ!
ウワーン!今年もギューーーンってなりながら12月を待つことになりそうです……
みなさまどうにかよろしゅうに………
#極力日記 48
あまり否定的なことは口にしたくない、美しくないから。
言葉や感情が醜い!というのは当然として、なによりその瞬間の表情が美しくない。
造形以前の問題で、ほんとうに醜く歪んで見えるのだ。
現実世界でもそうだし、たぶんそれはテキストであってもそう。
ああだこうだと訳知り顔で文字を打ち込む瞬間はきっと般若の顔をしている。
もちろん、つぶやきくらい好きに書かせい!という言い分や心情は痛いほど理解できるのだが、本当にそれでいいの?という疑問は常にある。
というか、言葉を選ぶ…文章を練るくらいの手間暇はかけていいんじゃない?と常々感じている。
見て思ったことをパッと放流しちゃうカジュアルさが魅力である、と思うものの、やっぱり人の目が存在するツールであるし、いついかなる人がどんなテンションで見ているかわからない。
最低限のエチケットとして文章には責任を持つ必要があるよね?と考えているし、責任を持つ、とは誰かの茶々に好戦的でいたり、好きに書かせろと開き直ることではなく、自分が放つ言葉がいかに獰猛な動機で発せられたものだとしても、第三者の目を明確に意識し極めて冷静であることを装うことに尽きるのではないか、と思う。
そのときどきのエモーションが飛び交うことも醍醐味のひとつと知るものの、SNSが市民権を得て(とは言っても、一部の好事家のみであるが)からと言うもの、かつてのような一瞬一瞬のどうでもいいことを言いづらくなってしまった。言うけど。
ツールに対し多少の歩み寄りをするならば、もう少し理知的に運用するべきなのは明らかなのである。
旧くからの瞬発的な意味もないことを散らす勢いで、流れてきたものに対して脊髄で好き勝手言うのはまぁまぁ見てらんないですよ、みたいな話。
インターネットは喫茶店よりずっとずっと声が大きいんですからね、ほな。
#極力日記 48
あまり否定的なことは口にしたくない、美しくないから。
言葉や感情が醜い!というのは当然として、なによりその瞬間の表情が美しくない。
造形以前の問題で、ほんとうに醜く歪んで見えるのだ。
現実世界でもそうだし、たぶんそれはテキストであってもそう。
ああだこうだと訳知り顔で文字を打ち込む瞬間はきっと般若の顔をしている。
もちろん、つぶやきくらい好きに書かせい!という言い分や心情は痛いほど理解できるのだが、本当にそれでいいの?という疑問は常にある。
というか、言葉を選ぶ…文章を練るくらいの手間暇はかけていいんじゃない?と常々感じている。
見て思ったことをパッと放流しちゃうカジュアルさが魅力である、と思うものの、やっぱり人の目が存在するツールであるし、いついかなる人がどんなテンションで見ているかわからない。
最低限のエチケットとして文章には責任を持つ必要があるよね?と考えているし、責任を持つ、とは誰かの茶々に好戦的でいたり、好きに書かせろと開き直ることではなく、自分が放つ言葉がいかに獰猛な動機で発せられたものだとしても、第三者の目を明確に意識し極めて冷静であることを装うことに尽きるのではないか、と思う。
そのときどきのエモーションが飛び交うことも醍醐味のひとつと知るものの、SNSが市民権を得て(とは言っても、一部の好事家のみであるが)からと言うもの、かつてのような一瞬一瞬のどうでもいいことを言いづらくなってしまった。言うけど。
ツールに対し多少の歩み寄りをするならば、もう少し理知的に運用するべきなのは明らかなのである。
旧くからの瞬発的な意味もないことを散らす勢いで、流れてきたものに対して脊髄で好き勝手言うのはまぁまぁ見てらんないですよ、みたいな話。
インターネットは喫茶店よりずっとずっと声が大きいんですからね、ほな。
(苦手なもの・よくないと感じることをもっと明確に伝えられるようにならないと、そうすることで意見にコントラストが出る、と一瞬思った時期が終わった。他人が気に入らないことを発信することにいちいち不快感を覚えるタイプの人間には向いていなかった。なりたくないものになる必要なんかどこにもない)
#極力日記 47
もう9月、今年も終わる。
8月になると『もう冬はそこまで来ているな』くらいの気持ちでいる。
気が早く意味がわからないと言われるが、本当にそうなのだ。揺るぎない真実なのだ。
もう今年は終わる。
やり残したことがないようにしよう!など、大それたことは過ぎらない。
いつだって取りこぼしてばかりの人生なので、つまらないことには極力こだわらない。
つまらないかどうかは、わたしが決めるけど。当然として。
閑話休題。
かわいいの代表格として君臨する動物、うさぎ。
間違いなくうさぎはかわいい。
うさぎ、ウサギ、兎、rabbit…字面からはあまり愛らしさを感じ取れないが、とにかくうさぎはかわいいのだ。
もっふもふの身体に『ω』の形をした口元。
クリッとした瞳に、丸い背中、小さなしっぽ。
かわいくないわけがない。
庇護欲を掻き立てる女子を時折"うさぎ系女子"なんて呼んだりするくらいには、守るべき愛らしさを小さな身いっぱいに湛えた生き物なのだ。
しかし、しかし。
そんな可愛らしい生き物にも、弱点がある。
食事だ。
過剰な減量を目的とした穀物・菜食中心の味気なく少量の食事を『うさぎみたいな食事』と揶揄することがある。
うさぎとしては立派な食事をそんなふうに貶されて心外だろうが、つまらないものはつまらないのだ。
全人類が認めるであろううさぎの愛らしさを以ってしても、あの無味乾燥とした食事を制すことはできないのだ。
うさぎたちから『どうでもいいよ』というクレームが聞こえてくるような気もするが、うさぎみたいな食事より、この文章のほうが圧倒的につまらない。
よくこんなくだらないことをツラツラ綴れたものである。人は歳を重ねると本当に面の皮が厚くなる。その証左である。
くだらないついでに、一生役立たない知識を。
うさぎの鳴き声は『ガォッ』。意外と獰猛。
普段は全く鳴かず、お鼻がピスピス鳴る程度だと言うのに。やる気を出したら思いのほか野太いのである。
もうちょっと具に観察すると、あと数カ所かわいくないところがある気がするな。そこもかわいいんやろうけど。
#極力日記 46
部屋を飛び回る虫をピシャン!と挟み潰してふと、たしかにわたしにとっては些細な忌まわしいことが減り、虫の死はハッピーなできごとだけれども、虫にとっては何となく飛んでいただけなのに、家主の機嫌を損ねたばかりに叩き潰され命を落とすこととなり、これはいったい良きことなのか、悲しむべきことなのか…と、誰も気にするわけのない袋小路へと迷い込んでしまった。
壁伝いに考えを巡らせるにつれ、これはきっと人にとっても同じこと、というところに漂着した。
考えを少し掘ると、死を悲しいことと捉えるのは残された人たちや、明確にやり残したことがある人…残し・残されベースの発想であって、逆の…たとえば人生を超エンジョイしていたり、この世に未練はなさそうですねって人…たとえば大往生だったり、とにかく人生がしんどかった人とか、そういう人に至っては、なんかこう、よく生きたよね!えらい!みたいな感じでスーパー祝ってもよくない?みたいな思いがふつふつと。
そもそも喪服は故人への哀悼の意が汲み取られれば色は黒でなくともよいそうなので(社会通念上、黒でなくてはなりませんが喪のルールとしては後付けのようです)、ことわたしの葬式においては、どんな死に方であったとしても『よく人生を全うしたよな、なにごともすぐ飽きるのに!人生、ここまでよく続けたわ!』みたいな皮肉を込めてくれて全然いいので、生きたことを讃えて、やっぱりみんなで明るくパーティーとかしてほしい。
みんなで楽しくわたしの悪口で盛り上がったりとかしてほしい。できるだけみんながご歓談できるようネタにまみれて生きるから。
そんなことを思いながら手のひらの上で平たくなった虫をティッシュを使って引き剥がし、ため息とともにゴミ袋へ丸めこむ。そんなうずくまった夜がたまにある。